「日本の30代、40代を熱くしたい」日頃この世代の方々とお会いしていてずっとこんな思いがありました。
そんな中この思いに賛同していただいたお二人(メジャーリーグでエージェントをされている三原徹氏と、
ノンフィクション作家の平山譲氏)のご協力を得て、ようやく実現した企画が「転機をチャンスに変えた瞬間」です。
第一線でご活躍されている方にも転機は必ずあったはずです。
その転機でチャンスをつかんだ、ピンチをチャンスに変えたからこそ今の活躍があるのだと思います。
その瞬間にはたらいたエネルギーの根っこにあるもの、ものすごいプレッシャーの中精神を支えたものとは。
ご登場いただく方々のメッセージを読んで、みなさんが熱く、熱くなっていただくことを強く祈念しております。
クライス&カンパニー 代表取締役社長 丸山貴宏
Interview
「悔いの残る野球人生」からの出発。
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とことん野球がやりたかった10代の米田さんは、高校では甲子園を諦め、大学でも硬式を諦め、選手としては悔いが残る野球人生を送ったという。早稲田大学の準硬式野球部で選手活動を終えたのち、野球に関わる仕事ができればと、西武百貨店へと就職。だが、入社当初はスポーツカジュアル販売の仕事に就き、その後も、プロモーションの営業企画、本社の営業分析と、野球とは無縁の道を進むことに。徹夜をしても企画書を一行も書くことができなかった若かりし日、そんな米田さんを前進させたのは、手探りしながら、一つひとつのことを真剣に学びとってゆく姿勢と、いつかは野球を仕事にしたいという、「捨てきれない夢」への望みであった。東北楽天ゴールデンイーグルスの球団代表の、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。
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丸山
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まず、米田さんの「野球」との関わりからお聞かせいただけますか。
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米田
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小学生のときに住んでいた茅ヶ崎で、スポーツ少年団に入ったのが始まりです。その後、二宮大磯リトルリーグで硬式野球を経験し、結構強いチームだったので、関東大会に出場したりもしました。野球は楽しかったですし、小さな頃はピッチャーでブイブイいわせていたので(笑)、高校に入ってからは甲子園を目指したいと思っていました。中学でもシニアリーグで硬式野球を続け、高校は早稲田実業高に進学したかったんです。当時は思いきり野球をすることしか考えていませんでした。しかし、家庭の経済的な理由から、我慢して県立高に入りましたが、その高校には硬式野球部がなかったんです。大学は早稲田大学に進学し、硬式野球部ではなく準硬式野球部に入りました。そこでは4年間野球を全うして選手としては終わりましたが、自分としては、高校では甲子園を諦め、大学では硬式を諦めているので、プレーヤーとしては悔いが残る野球人生だったと思っています」
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丸山
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就職先を決めるにあたり、どのような選択をされたのでしょうか。
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米田
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僕はしつこくて、自分の中で、野球というものを切ってしまうことができなかったんです。野球にたずさわる仕事がしたい、そればかり考えていました。当時、百貨店のスポーツ館というのが流行っていたんですね。西武百貨店のスポーツ館にもいくつものプロジェクトがあって、その中には野球用品などの職人のような仕事があったんです。グローブやスパイクを直したり、少年野球チームをプロデュースしたり。早稲田大学時代、先攻が体育学だったこともあり、とにかくスポーツに関する仕事をしようと。ところが、いざ西武百貨店に就職してみると、配属がスポーツカジュアルだったんです。僕なんか、服は学ランで、あとはジャージかユニフォームしか知らないような若者で、洋服に関する知識なんてまったくありませんでした(笑)。だから、シャツの歴史などを一から学んで勉強したりしました」
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丸山
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その後も野球とは無縁のお仕事が続きました。やりたいことと現実とのギャップに、どのように対処されましたか。
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米田
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次の配属は、池袋西武の営業企画でした。年度最大のクリスマスのプロモーション企画を任されたんですが、僕は野球しかやってこなかったような人間ですから、文章を書くということが不得手でした。先輩や同僚たちは、思い思いの企画をすらすらと文面にしているんですが、僕は一行も書けない(笑)。結局、みんなが帰宅してからも会社に残り、徹夜して、それでも一行も書けなかったことを憶えています。その池袋西武に4年間いたのち、本社の営業分析へ異動になりました。今度は文章ではなく、数字ばかりの世界。数字アレルギーだったので、一日中数字とにらめっこする仕事は辛かったです。その後も、筑波西武の販促や本社の営業企画など、野球とは無縁の仕事が続きましたが、一方で企画プロデュースや数値分析など小売におけるマーケティング系のスキルは着実に身についていました。でもライオンズセールだけは、誰にも譲らずに自分がやるんだと、楽しんでやらせていただいていました。どこかで野球とつながっていたい自分がいたんだと思います。西武ライオンズ球場(当時)の球場長に、「球団に入りたいんです」などとお話させていただいたこともありました。でもそれは人事的に難しいと真剣にいわれてしまって、がっかりしたこともありました。夢は捨てきれない自分がいるんですが、実生活の中で、いつしか野球が遠い存在になっていきました。いくつになっても野球は好きでしたが、それ以上に僕が生きていく道は別にある、自分にそう思いこませていました。
未来を大きく変える転職への勇断。
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39歳まで勤めた西武百貨店を退職し、異業種への転職を決断した米田さん。選択したのは、躍進著しいIT関連企業の楽天だった。代表の三木谷浩史氏との出会いに感銘を受け、若い社員たちのなかへ飛びこむようにして入社。業績躍進のまっただなかで、顧客の分析などで力を発揮し、グループ企業としての拡大化に貢献していった。六本木ヒルズへ移転した折、野球好きを集めて野球部を創設。そんなとき、楽天がプロ野球に参入するというビッグニュースが飛びこんできた。その舵取役に抜擢されたのが、社内では珍しい「野球経験者」の米田さんだった──。
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丸山
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西武百貨店から、異業種の楽天への転職をご決断した、その経緯をお聞かせ願えますか。
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米田
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39歳になり、もう人生の折り返しだなと思い、転職を思いたちました。いちばん行きたかったのが、楽天でした。まだ有名な企業ではありませんでしたが、これからIT関連企業はかならず成長するという確信がありましたし、楽天の成長が著しかった。また、オーナーの三木谷さんともお会いして、予想外の、突拍子もないことを発想されていて、その先見性に、一度会っただけで憧れてしまい、この人についていきたいなと思ったんです。転職は、周囲には大反対されました。父なんて、泣いて反対していました。もちろん、僕の中にも不安がなかったといえば嘘になります。会社を辞めることや、新しい世界に飛びこむことは、恐怖心が伴います。でも、壁をぶち破らなければ、人生は変わらない。西武百貨店にいた場合の自分の人生の限界が見えてしまって、それならば、別の世界で自分の可能性を広げることに挑戦してみたかったんです。
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丸山
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転職を成功に導くには、転機をチャンスと捉える積極性が大切かと思うのですが。
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米田
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楽天では、もちろん戸惑いもありました。いかんせん若い企業で、39歳の僕がかなりの年配で、それなりの居づらい空気みたいなものもありました。3月入社でしたが2月中旬から働いて、最初の朝会議でメンバーに紹介されたとき、いきなり次の朝会議までに顧客の分析をして発表しろといわれました。突然なので驚きましたが、それからの1週間、寝ないで数字とにらめっこしました(笑)。そして、過去1年間で100回以上100万円以上も買い物するお客様が5人います、なんてデータを発表しました。会社全体に勢いのようなものを感じましたし、グループ企業として躍進していくという実感もありました。僕自身は、楽天ポイントというシステムを構築していくなかで会社の成長をまのあたりにし、さあ、これから面白くなるぞと前向きに考えていました。
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丸山
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そんななか、突然、楽天がプロ野球に新規参入することになりました。米田さんの、「野球を職業に」という密かなる夢が、目の前に現れた瞬間でもあったと思います。そのときの心境はいかがでしたか。
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米田
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楽天に転職するにあたり、「野球を職業に」という夢は、もう諦めなければならないのかなと思っていました。僕はマーケティングの分野で生きていく人間なんだろうなと。それでも、もしその後、自分で起業する機会があれば、キャリアを活かしつつ、野球関連の仕事をしたいとは思っていました。それに、やはり野球が好きだったので、社内の野球好きを集めて、野球部をつくったりもしていました。どうしても、野球とは無縁ではいたくなかったんでしょうね。また、楽天がサッカーへの参入を始めたときには、野球はやらないのかなとも思ったりしていました。そんなとき、プロ野球への新規参入の報に接して、その瞬間、おお来たか、と。なんの迷いもなく、僕がやるんだと。夢は持ち続けるものだなと思いました。
球団代表としての苦悩と歓喜。
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楽天のプロ野球への新規参入にあたり、その球団代表として白羽の矢が立った米田さん。「野球を職業に」と長年抱き続けてきた密かなる夢が実現した瞬間だった。しかし、それは同時に、連続して訪れる苦労の始まりでもあった。まったくのゼロから、約半年間で開幕を迎えるという時間的制約のなかで、連日徹夜でチーム作りに邁進。激務に追われる米田さんを支えたのは、「50年ぶりに新しい球団を作る」という、もしくは、「自分がやらずに誰がやる」という、責任感と使命感であった──。
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丸山
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新球団設立にあたっては、これまで経験してこられた苦労とはまた別種の、途轍もない大変さに直面されたのではないでしょうか。
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米田
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ゼロからのスタートでしたし、球場を綺麗に整備し、スタッフを組織して、監督や選手を集めてと、やらなければならないことが多すぎました。しかも半年という時間的期限がある。雪が降って球場の工事が間に合わないんじゃないかとか、開幕までにいろんな環境を整えられるのかとか、不安はたくさんありました。しかし期限が決まっている仕事なので、まずは、先に結果をイメージし、そこに向かって仕事を進めていったという感じです。監督から、選手のことを知らないから秋季キャンプをやりたいといわれたときには、グラウンドも、ユニフォームもなく、スタッフもいないなか、どうすればいいのかと途方に暮れました。まず当時の近鉄の管理部長に頭を下げて藤井寺球場を無料で貸していただき、白いユニフォームで揃え、そして慶応大学の学生にアルバイトを頼んでTシャツを着せてヘルメットを被らせて球拾いをさせました。僕も、マスコミ対応や、スタッフの面接や、不動産の説明会などをこなしながらも、球拾いをしましたよ(笑)。
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丸山
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野球をお仕事にすることができたわけですが、実際、お仕事となると、人には見えないご苦労も多いでしょうね。
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米田
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たとえば西武百貨店時代は、企画書が一行も書けなかったなんてことは公にならないじゃないですか。それが球団代表という立場だと、仕事ぶりが新聞で公表されてしまう。しかし、そうしたことをプレッシャーに感じてしまうのではなく、「50年ぶりの新球団を作るんだ」「自分がやらずに誰がやるんだ」という責任感や使命感で仕事を進めていきました。僕だけでなく、あのときのスタッフのみんなの心の中には、そうした気概のようなものがあったと思います。プロ野球への参入申込書を書き上げたときは、1週間、連日2、3時間の睡眠しかとれませんでした。しかしそのとき感じたのは、大変だなというよりも、楽しいなという気持ち。いま、ほんとうに、やりたい仕事をできているんだという充実感でした。
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丸山
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苦労も大きかったぶん、無事開幕を迎えるところまでこぎつけたときには、歓びもひとしおだったのではないでしょうか。
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米田
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春季キャンプに臨む直前に、仙台でイベントをしたんです。選手、監督、コーチ、スタッフ、初めて全員が揃いました。これが東北楽天ゴールデンイーグルスですという、お披露目ですね。そこまでは、僕も全力で突っ走ってきて、感慨にふける暇などなかったですが、さすがにそのイベントでは、こみあげてくるものがあり、舞台の袖で泣いていました。嬉しいというより、ほっとしたという安堵感かもしれません。でも、それも束の間、シーズンが始まると、2戦目には0対26という屈辱的なスコアで負けたことがあって、そうなると悔しくてね。元来、負けず嫌いなものですから(笑)。プロ野球の世界は、すべての仕事がチームの勝敗という結果で表されてしまうという厳しさがあります。今年は、クライマックスシリーズへ出場するため、目標を75勝に定めました。すると三木谷会長が、「80勝だろ」って(笑)。
個人の目標から、夢の共有へ。
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秋季キャンプの球場すらなく、ユニフォームも真っ白のままスタートしたチームを、わずか5年で、スタッフと一丸となってクライマックスシリーズ出場も視野に入るところまで育て上げた楽天球団代表の米田さん。これからの目標は、もちろんチームを日本一にし、常勝軍団へと育て上げること。しかしそれのみならず、自身のキャリアを客観視し、さらなる夢をも追いかけてみたいとも話す。転職を機にやりたい仕事にたどりつき、そして成功を勝ちとった米田さんからの、転職を考えている30代、40代へのメッセージとは──。
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丸山
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「野球を職業に」という夢を叶えた米田さんですが、ここまでの半生、これを欠かしてしまっては、夢を成し遂げられなかったという要素があるとしたら、どんなことが挙げられますか?
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米田
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諦めない、という精神でしょうか。自分のビジネススキルは、最初はまったくなかったといってもいいほどで、心の中では、いつもピンチを迎えていました。企画書を徹夜しても一行も書けなかったり、数字の世界に行って自律神経失調症になりそうになったり、血尿を出しながら仕事をしていたこともありました。でも、そんなとき僕は、ピンチをチャンスだと捉えていました。これらの仕事を、途中で投げ出すことなく最後までやり遂げることで、自分のキャリアは構築されてゆくんだと。徹夜して一行も書けなければ、もう一晩徹夜してみようという勢い。そして、諦めない姿勢を貫いていれば、周囲の人が、手を差しのべてくれることもあります。そうした人の支えに感謝しつつ、努力して一つひとつの仕事を完成させてゆく。その連続が、いまの自分につながっているような気がします。
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丸山
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20代から30代にかけてと、いま、40代に入ってのキャリアのなかで、精神的にどんな部分が変わり、どのように成長したと実感されていますか。
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米田
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サラリーマンの世界ですから、若い頃は出世したいという気持ちが強かったです。等級を上げてゆくことにおいて、人には負けたくないと思っていました。でもいまは、そういう個人的なことではなく、チームをゼロから作って、それを今度は、どうしたら勝ち続けるように育て上げられるか。スタッフの夢、ファンの夢、地元の夢、その期待に、どうやって応えていけばいいのか。この仕事は、苦しいこと、嫌になることなど、数え切れないほどあります。いつ辞表を出してもいいというような覚悟も持って仕事に臨んでいます。でも、苦しいな、嫌だな、そう思ったときに考えるのは、「なんでこの仕事をしているのか」ということです。みなさんの夢、チームを日本一にという夢を思えば、まだまだ一生懸命やらなければ駄目だと、そう思えます。
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丸山
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最後に、いま、転職を考えている30代、40代に、力強いメッセージをお願いします。
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米田
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小さくてもいいから夢を見つけて、それを大切に抱き続けること。目の前の仕事に忙殺されることもあるでしょうが、その夢に向かって、チャンレンジする気持ちを失わないことも大切だと思います。それと、キャリアを積みかさねるにあたって、そのときどきで自分の人生に影響を与えてくれる人を見つけること。自分が一番になってしまうのではなく、いつでも人に憧れている謙虚さとか、人に触発されて大きなことを成し遂げようとする柔軟性とか、人を励まし、励まされて前進していく思いやりとか。僕は、一緒に働いているメンバーが好きですし、いまは後輩に頼られている部分もあるので、自分が頑張らなければならないという責任感もあります。人は、人に支えられ、ときには人を支えながら、大きくなってゆく存在だと思っていますから。
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※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。