ハイクラス転職のクライス&カンパニー

「思い」を持って仕事に臨む人に、成長曲線はかなわない。だから年収が20分の1になろうと、素直に生きる。

公開日:2014.05.26

「途上国から世界に通用するブランドをつくる」。そんなビジョンを掲げ、発展途上国で企画・生産したアパレル製品や雑貨を、日本をはじめ先進国で販売するという事業に挑んでいる株式会社マザーハウス。その経営に参画している山崎氏は、かつて世界的な投資銀行でエコノミストを務めていたという異色の経歴の持ち主だ。なぜ山崎氏は、エコノミストという地位や高額な報酬をなげうって、敢えて困難なベンチャービジネスの世界に飛び込んだのか。これまでの生き方をふりかえり、その思いを語っていただいた。
山崎大祐氏のプロフィール写真

山崎 大祐 氏プロフィール

株式会社マザーハウス / 取締役副社長

1980年、東京都生まれ。2003年慶應義塾大学総合政策学部卒業、ゴールドマン・サックス証券に入社。日本法人で数少ないエコノミストの1人として活躍し、日本及びアジア経済の分析・調査・研究に従事。在職中から後輩の山口絵理子氏(現・マザーハウス代表取締役)の起業準備を手伝い、2007年3月にゴールドマン・サックス証券を退職。株式会社マザーハウスの経営への参画を決意し、同年7月に副社長に就任。現在、マーケティング・生産の両サイドを管理。また、さまざまなテーマで社外の方々と議論を深める「マザーハウス・カレッジ」も主催。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

豊かさとは何か。そんなテーマに、もがき苦しんだ大学時代。

――
山崎さんは大学卒業後、ゴールドマン・サックスに入社されましたが、当初から「経済」に興味をお持ちだったのですか。
山崎

いえ、高校時代までは完全な理系バカで、物理学者になろうと思っていました。数学の偏差値が70台で英語が40台でしたから(笑)、いまのようにグローバルで仕事をするなんて想像もしていませんでしたね。大学受験では物理の研究者を目指して国立大学の物理学科を志望したのですが、その時にあらためて自分の夢を考えると、もうひとつ頭の中によみがえってきたことがあって……それは、小学校5年の時にテレビで見た「ベルリンの壁の崩壊」。子供心ながら「大衆が世界を変える」という光景に感動し、そうした映像を伝えるジャーナリストにずっと憧れがあった。それで、メディア系の学部で偏差値が一番高い慶應の総合政策学部を記念受験したのですが、英語が全然できなくて、当然落ちるものだと思っていて合格発表の日に彼女と遊びに行っていたのですが(笑)、結果はなんと合格。国立大の物理学科にも合格し、どちらに進もうか迷ったものの、もともとの夢を選びました。

――
では、大学ではジャーナリストになるための勉強を?
山崎

ドキュメンタリーをひたすら撮っていましたね(笑)。私自身、母子家庭で経済的に苦労したこともあって、世界の貧しい人たちを撮りたいという思いがありました。それでベトナムのストリート・チルドレンを取材しに現地に赴いたのですが、私としては「可哀そうな子供たち」をカメラに収めたかったものの、物売りの子供たちに会うとみんなとても明るくて……現実にはブローカーに搾取されている構図なのですが、子供たちの笑顔は貧しさを微塵も感じさせないものだった。夢を聞くと、目を輝かして30分延々と私に語かけてくる。衝撃的でした。そしてその時、思ったんです。日本の子供たちは30分も夢を語れるだろうか? 確かに経済的には日本は裕福だけども、将来を信じられない我々日本人は本当に豊かなんだろうか?と。いろいろ悶々としながら帰国し、「豊かさとは何か」を紐解こうとしたところ、行き当たったのが経済学でした。もともと経済学というのは、マルクスにせよケインズにせよ、みな「目の前の人が飢えている世界をどう変えるか」がテーマであり、そこに自分が求める答えがあるんじゃないかと。それで竹中平蔵先生のゼミに入り、ドキュメンタリーを撮るのをやめて、ひたすら経済を勉強しました。

――
大学時代に訪れたベトナムでの経験が 山崎さんを「経済」に目覚めさせたのですね。
山崎

でも、経済学の勉強も行き詰まってしまったんです。当時はちょうどアジア金融危機後で、それに関する研究が盛んだったのですが、貧困解決に寄与する策にどんなに取り組もうと金融危機が起こるとすべて水の泡になってしまう。その理不尽さに憤りを覚え、「金融至上主義は間違っている!」とマルクス経済学に傾倒。家に閉じこもって経済書を読みふけり、半分鬱のような状態になってしまい、大学にも行かなくなりました。

――
金融について学べば学ぶほど、その理不尽さを感じて苦しまれたと。そうした状況から、どうやって抜け出したのですか。
山崎

自分自身が八方塞がりになり、もうどうしようもなくなって「旅が何かを変えてくれるかも」とイギリスにふらっと旅行したんです。イギリスのシュルズベリーという美しい田園風景が広がる地方都市を訪れたのですが、昼は賑やかな街だったのに夜になると街中に誰もいなくなってしまった。警察官に「街の人はどこに行ったのか?」と聞くと「スタジアムだ」と。それでスタジアムを訪れてみると、ものすごい観衆がサッカーに熱狂している。隣に座ったおばあちゃんなんて、放送禁止用語を連呼しているような有様(笑)。その場で「人が生きる価値って何だろう」って思ったのです。サッカーに命かけるという価値観は、自分には理解できない。でもこの人たちは幸せそうだ、と。あと、もうひとつイギリスで経験したことがあって、ロンドンの美術館に立ち寄った際、そこでダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「ベアタ・ベアトリクス」に触れて、その絵のエネルギーに圧倒されて……美術なんて興味はなかったんですが、150年前の絵が人の心を動かすということを肌で知った。それまでの私は、本ばかり読んで「何も答えを与えてくれない」と苦しんでいたのですが、人が生きる喜びはアカデミックなアプローチからだけじゃわからないと気づいたんです。

――
知らない世界に出会ったことが、山崎さんを立ち直らせてくれたと。
山崎

イギリスでの出来事は私にとって非常に大きなものでしたが、大学にまた行くようになった最大のきっかけは、実は好きな人ができたからなんです(笑)。結局、人間なんてそんなもの。私が大学4年間でいちばん学んだことは「好きこそものの上手なれ」。どんなに難しいことを勉強しても、結局私は大学に行けなくなってしまい、幸せになれなかった。幸せじゃない人が、世界を幸せに変えられるわけがない。それからすべてをポジティブに考えるようになった。いまの私の原点はそこにあるように思います。

後輩の起業、そしてある経営者との出会いで自分が変わった。

後輩の起業、そしてある経営者との出会いで自分が変わった。

――
そんな山崎さんがなぜ、エコノミストという仕事を選ばれたのですか?
山崎

先ほども話しました通り、私は金融が大嫌いでした(笑)。いまの金融の仕組みそのものが間違っているのではないかという疑念があったので、敢えて金融のど真ん中に立って確かめてやろうと。それで、いろんな情報を掴んで経済全体を見渡せるエコノミストという仕事に注目したのです。新卒でエコノミストを採ってくれる企業はほとんどなかったのですが、ゴールドマン・サックスは採用枠があって、そこに応募して入社に至りました。私は大学時代、懸賞論文とか出しまくっていて、その論文なども評価していただいたようです。もちろん金融が嫌いというのは黙っていましたけど(笑)。

写真
――
新卒でゴールドマン・サックスのエコノミストを担うというのは、凄いキャリアですよね。
山崎

でも入社後は本当に大変でした。TOEICは多分600点レベルでしたから、英語ができなくて最初の1年ほどは苦しみましたね。でも4年間は死ぬ気で勉強しようと心に決めていました。その時、私が描いていたビジョンは、4年でここを卒業してアジアをバイクで横断する旅に出ようと。大学時代からよく訪れていましたし、アジアの人々には何か共鳴するものがあった。アジアを自分の生涯の仕事のフィールドにしたいと思っていたのです。でも悲しいかな、そうした志を時間の経つうちに忘れてしまうんですよね。人が思いを忘れる要素は2つある。忙しさとお金なんですよね。その両方が揃っていたと同時に、本当に勉強になることも多かった。また、成果を出すとポジションも上がっていく。会社に自分が望む環境を用意してもらって、やりたい仕事もさせてもらっていました。そんな時、山口(絵理子氏/株式会社マザーハウス代表取締役)が私のところにやってきて「バッグを買ってくれ」と。

――
マザーハウスを立ち上げた山口さんは、山崎さんの大学のゼミの後輩でいらっしゃるんですよね。
山崎

そうなんです。彼女は一つ下なんですけど、ゼミの採用面接を私が担当したんです。その場で「夢は何か」と聞いたところ「総理大臣になって世界の教育を変える」というとんでもない答えが返ってきて、面白いやつだなと(笑)。山口は現場主義で、僕はマクロな人間。学生時代からいろんな議論を交わしてきた間柄です。彼女は、途上国の支援策に大きな問題意識を抱えていて、寄付してもそれが現地の政治家の懐に入ってしまうような現状を憂いていた。それで彼女が出した答えが、現地の人たちと一緒に自分で事業を興すこと。バイト代を貯めて、それを元手にバングラデシュでバッグを生産し、日本で販売するというビジネスを立ち上げたのです。

――
バングラデシュで山口さんが作ったバッグを、山崎さんに売り込みにいらしたわけですね。
山崎

まあ、稼ぎだけは良かったので……(笑)。そこで山口と「きちんと事業をやるなら会社をつくるべき」という話になって、二人で出資してこのマザーハウスを設立しました。その頃はエコノミストを務めながら、副業でこのマザーハウスにも関わっていたのですが、あまり深く考えずに600個以上のバッグを作ってネットで販売しようとしたところ、まったく売れなかった。このままだと会社がつぶれてしまうと焦り、商社や広告代理店、コンサルなどに勤めている友人に知恵を借りようと、当時私が住んでいたマンションで山口とともに彼らを招いて戦略会議を開いたんです。それがとても面白くて……マンションの鍵を渡していたんですが、みなもう勝手に部屋に入り込んで、連日夜中まで議論。睡眠時間が削られようと、そこで意見を戦わせるのが本当に楽しかった。なぜそんなに楽しかったかというと、損得ではなく「思い」で仕事をしているからなんですね。だからこんなにパワーがあふれ出る。自分の思いで仕事をしているヤツには、成長曲線はかなわない。

――
その「戦略会議」が、山崎さんをマザーハウスに引き込んだのですね。
山崎

もうひとつ契機があって、それは堀江さん(堀江貴文氏/元ライブドアCEO)との出会いです。仕事で一緒に食事をする機会があり、金融やITについてとてつもなく豊富な知識をお持ちで感心していたのですが、「いま注目しているビジネスは?」と尋ねると「ミドリムシだ」と。それからミドリムシについて熱く語られ、これを栄養カプセル化すれば途上国で凄いビジネスになると力説されたのです。その様子に本当に衝撃を受けました。金融やITにあれだけ詳しいのに、やりたいのはミドリムシなのかと。固定観念がまったくない。そこにあるのは「世の中に必要なものを必要な形で提供する」という経営者の視点だけ。振り返って私自身、エコノミストとして「本当に世の中に必要なものを提供できているか」と考えると、その感覚はなかった。それまでの私はアカデミックな世界を志向していて、「ビジネス」を毛嫌いしていた面があるのですが、そこで初めてビジネスなるものが魅力的に映り、経営に興味が湧いたのです。

未来が描けない日本の苦しみを、何とかしたい。

未来が描けない日本の苦しみを、何とかしたい。

――
ゴールドマン・サックスのエコノミストの地位を捨てることは、ご自身のキャリアとしてもったいないという意識はありませんでしたか?
山崎

エコノミストとマザーハウスの経営をしばらく両立していたのですが、ある時、マザーハウスが大手有名百貨店での催事に出店できることになったのです。これはバカ売れするだろうと、ボランティアでお手伝いということで自分で店頭に立ったんですが(笑)、これが全然売れない。朝10時から夜7時まで売上ゼロ。閉店間際の7時過ぎに初めてひとつ売れて、「1万円のバッグを売るのはこんなに難しいのか」と。ゴールドマン・サックスでは日々「100億円の債券が売れた」とか「50億円の株式のディールが」とか、それがごく当然のように捉えていましたが、私はそれまでお客様に財布から1万円札出してもらうことの難しさも知らなかった。エコノミストなのに、本当の意味での経済をわかっていなかった。このままエコノミストの仕事を続けていたら、きっと何も知らないまま私のキャリアは終わってしまう。それはあまりにも虚しい、辞めようと。

――
そしてマザーハウスの経営に専念されるようになったわけですね。実際に事業を動かす立場に就いていかがですか。
山崎

本当に自分は何も知らなかったんだ、ということを日々思い知らされます。私たちの身の回りにあるモノが、誰が作ってどのような経路で手元に届いているのか、そんな基本的なことすらも私は知らなかった。いま、バングラデシュとネパールの工場で当社の商品を生産しているのですが、現地に足を運ぶとあらためて勉強になることばかりです。

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――
経営者としてのご苦労もあるかと思います。経営者としてのターニングポイントはありますか。
山崎

実は過去、社員から突きつけられたことがあります。私はCFOですので、資金繰りには常に頭を悩ませているのですが、サプライチェーンをすべて自社で担っているというビジネスモデル上、次々と店舗をオープンさせて事業を拡大していかざるを得ない。すると社員の負担が大きくなる。みんな一生懸命仕事をしているがゆえに、その方針に不満を持つ社員もいるわけです。確かにいま振り返れば、私もまだ若かったこともあって精神的にも安定せず、周囲を振り回してきたように思いますし、経営者としては未熟でしたね。20代で経営者なんてやるもんじゃない(笑)。でもそうした出来事を重ねるうち、自分の考えや会社の状況をオープンにするようになってきました。会社が厳しい時は、正直にそのことを話しますし、世間にある程度、そんなことが知られることも大事。最近はビジネスが安定してきたので 以前にもまして素直になってきた(笑)。

――
「素直に生きる」というのは、現代では難しいことなのかもしれません。
山崎

私の場合、前職を辞めたとき、年収が20分の1になりました(笑)。でも、まわりから「素直に生きていますね」と言われるとありがたいですし、いまは仕事もプライベートも裏表なく過ごせるのでとても心地よい。いまの社会自体、みんな素直じゃないと思うんです。喜怒哀楽を殺して生きている。「修行」として仕事を捉えている人も多い。あと「好きこそものの上手なれ」は真理だと思いますが、「自分の好きなことを見つけなければ」と強迫観念にとらわれて、見つけられないと自分を否定してしまうような傾向もある。私はいま30代前半ですが、本当に好きなことを見つけたなどとは思っていませんし、好きなものなんて10年も経てば変わります。いまの自分の価値観と素直に向き合って、まずアクションを起こすことが大切だと思いますね。

――
山崎さんはこれからも素直に生き続けるということですね。
山崎

バングラデシュやネパールの工場に赴くと、現地のスタッフたちは本当にみんな元気で、こちらが逆にエネルギーをもらう感じです。私はマザーハウスの経営に携わるとともに、裏ミッションとして、未来が描けないこの日本の苦しみに対して何かできないか、という意識が強くあります。そこに少しでも力になれれば、というのがいまの私の最大の思いです。たとえば、これまで自分が経験していたことを共有し皆さんで議論する「マザーハウス・カレッジ」という交流の場も設けていますし、できることは素直に何でも取り組んでいきたいですね。

構成: 山下和彦
撮影: 上飯坂真

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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インタビューを終えて

いつお会いしても、どんなテーマでも、常に白熱した議論の中心にいる山崎さんはゴールドマン・サックスのエコノミストから社会起業の世界へ飛び込むという非常に異彩を放つチャレンジを実現された方です。変化の激しいこの現代において個々人のキャリア観は一層多様化していますが、山崎さんのチャレンジはその変化度合いにおいて特に注目していました。客観的にサラリーや地位をみるとリスクが見え隠れする意思決定にもみえますが、当事者としての山崎さんからはその気配を一切感じられませんでした。 「なぜそんなに楽しかったかというと、損得ではなく『思い』で仕事をしているから。だからこんなにパワーが溢れ出る。自分の思いで仕事をしているヤツには、成長曲線はかなわない。」 『楽しさ』と『成長』、そして幼い頃から常に持ち続けている社会に対する強い『問題意識』。自分の信念に立脚して、素直に生きる道を決断し続ける山崎さんの熱い人生のお話でした。ありがとうございました。

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