ハイクラス転職のクライス&カンパニー

「感じたこと」を大切に生きる。そんな志が、人生に力を与えてくれる。

公開日:2015.08.24

株式会社リクルートに17年間勤務した後、プロのコーチとして独立し、その後、家族関係をテーマにしたNPO法人を立ち上げたり、自然と触れ合う体験を提供する事業を営むなど、ユニークな活動を数々繰り広げている山田氏。こうした生き方を選択したその背景と、これまでのターニングポイントを振り返っていただいた。
山田博氏のプロフィール写真

山田 博 氏プロフィール

株式会社 森へ / 代表取締役

1987年、東北大学教育学部卒業、株式会社リクルート入社。採用広告・教育研修の企画営業などに従事。自らが受けたコーチングで、人生の方向性を見出せたことをきっかけに、コーアクティブ・コーチングを習得。2004年、プロ・コーチとして独立。活動を始め、2005年に家族がお互いを育み合う関係を支援するNPO法人ファミリーツリーを設立。2006年からは、自然の中で自分を見つめ、感じる力を解き放つ「森のワークショップ~Life Forest~」を始める。2011年、人と自然、大地とのつながりを思い出し、ずっと先の世代までこの地球ですべての生命と共に平和に暮らす、という願いを込めて、株式会社 森へ を設立。ビジネス・リーダーや転機にある個人が自分の原点にふれる「森のリトリート」を開催している。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

幼少期の経験が、いまのキャリアに大きく影響している。

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山田さんは40歳を目前にリクルートから独立され、現在、コーチングの専門家として活躍される一方、家族関係を支援するNPO活動や、森と触れ合う体験を提供するビジネスを手がけられるなど、多彩な活動を繰り広げていらっしゃいます。山田さんはもともと昔から、こうした取り組みに興味をお持ちだったのでしょうか。
山田

振り返ると、私にとって「家族」と「自然」というのは根源的なテーマだったと思います。私の実家は都内で小さな町工場を営んでいたのですが、小学校低学年の頃、オイルショックのあおりを受けて倒産してしまって……それで東京で暮らせなくなり、両親と兄弟3人の家族5人で栃木県の那須に移り住んだんです。そこから田舎暮らしが始まるのですが、生活も急に苦しくなって、学校でもかなりいじめられました。でも両親は生活のために必死に働いていて、私をかまう余裕などなかった。それで「お父さんお母さんが自分のことを守ってくれない」という絶望的な気持ちになって、身体を壊して半年ほど学校を休んだことも……当時は本当に辛かったです。両親に対する恨みのような気持ちも湧いてきて、関係もずっと冷めたままでした。が、30歳を過ぎて長男が生まれ、私も家族を持つとそうした心の傷も癒え、両親との関係も修復。やはり家族は安心できる居場所であってほしいという思いをずっと抱いていて、かつての自分のように家族関係で悩む人々の力になれればとNPO法人を立ち上げたのです。

――
幼少期の経験が山田さんのキャリアに大きく影響されているのですね。
山田

はい。あともうひとつ、子供の頃の私を救ってくれたのが「自然」でした。先ほどもお話ししましたが、一時期身体を壊して学校に通えなくなっていた時、那須の大きな自然が自分を包み込んでくれました。森や林の中に入ると、何だかほっとしたんですね。親もかまってくれない状況だった私にとって「森の中は自分の居場所」という感覚でした。活火山で煙を吐いていた那須の山々の雄大な光景は、いまの自分の心の中に深く刻まれていて、思い出すたびに元気が出てきます。サラリーマン時代はそうした感覚が封印されていたのですが、30代の後半に再び「自然」に対する強い思いが湧き出してきて、森でのワークショップ活動などに取り組み始めました。

――
その後、学生時代はどのように過ごされたのですか?
山田

小学生の頃は本当に辛い毎日だったんですが、私を見かねた父親が地域の子供を集めて野球チームを作ってくれまして、それがきっかけで立ち直りました。中学は野球しか記憶にないほど打ち込んでいましたね。あと、高校に入ってからは古典に興味を持って、「平家物語」や「徒然草」「方丈記」など日本の中世文学を読み漁りました。そこに描かれていたのは、無常の世界。私たちを取り巻く世界は常に変化していて、同じ状況はない。そんな中で人間はいつも生きてきた。だから、いまが良いからといって有頂天になっても意味がない。逆に良くないことも永遠に続くわけではない。今思えばそういう考え方が、子どもの頃からの経験もあいまって知らず知らずに私の心に沁みたんですね。

――
幼い頃に辛い思いをされて、そこから立ち直った経験をされているだけに、そうした無常の思想がより山田さんに響いたのかもしれませんね。
山田

おっしゃる通りだと思います。結局、人生なんて良いこともあれば悪いこともある。であればいまこの瞬間にベストを尽くすしかない、という思想は今の私の生き方に大きく影響しています。

経験したことしか、わからない。だから、予想外を楽しむ。

経験したことしか、わからない。だから、予想外を楽しむ。

――
山田さんは高校卒業後、東北大学の教育学部に進学されています。大学時代はいかがでしたか。
山田

教育学部を選んだのは、古典の先生になろうと思ったからです。まあ、大学時代はちゃらんぽらんでしたね(笑)。アルバイト、酒、あとは旅ばかりしていました。ずっと田舎で暮らしていましたから、自分が知らない外の世界を見たいという思いが強かったんです。離島に一人で渡ったり、ヒッチハイクしてあてどもない旅をしていました。計画し過ぎず、感じるままに行動する。ある種の直感ですね。今日どっちの道を選ぶか、その場に置かれた自分の感覚が頼りなんですね。予想もしない事態に遭遇した時にも、なんとかして切り抜けていけたのは、感じたままに行動したからだったと思います。

――
それは我々が普段行っているキャリアのコンサルティングと似ています。敷かれたレールから外れると対応できない、というのではなく、予想外のことが起こったら、それを敢えて自分の中に取り入れていこうと。そういう人のほうが大局的に見れば強い生き方ができるのだと感じます。
山田

その考え方は共感できますし、自分の実体験にも合ってますね。私が旅で学んだことのもうひとつは「経験したことしかわからない」ということ。大学の時に一人でヨーロッパを一周したことがあったのですが、ローマでスリに遭って全財産を失くしてしまったんです。その時、見ず知らずのイタリアの方が私を助けてくださった。命の恩人です。世の中には、悪い人もいれば良い人もいる。ごく当たり前に思えることでも、経験しなければそれを実感することはできない。もちろん書物で読んだことや人から聞いたことからも影響は受けますが、自分の中に本当に刻み込まれるのは、直に体験したことだけ。「経験したことしかわからない」というのは、私が生きていく上での確固たる基盤になっていますね。

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――
古典の先生を目指されていたとのことですが、どうしてリクルートに入社されたのですか。
山田

教職を取って教育実習に出かけたのですが、学生に古典を教えるのは楽しかったものの、職員室の雰囲気がどうにも馴染めなかったんです。同僚の教師のみなさんが何だかつまらなそうで……あと、新卒の若い教師が年上の保護者から「先生」と呼ばれてどうも勘違いしているような様子も嫌だった。教師として働く自分がまったくイメージできなくなって、慌てて就職活動を始めたのですが、ほとんどの企業が採用活動を終了していまして。どうしようかと思っていたのですが、ちょうどリクルートが大量採用している頃で、まだ枠が残っていたんです。活気があって楽しそうな会社だなと、またしてもあまり深い考えもなく決めました(笑)。

――
リクルートではどんな業務を経験されたのですか。
山田

最初は人事に配属になり、高校生の採用を任されました。地頭が良くて根性がある高校生を全国から100名採用してこい、やり方は自分で考えろ、と無茶なミッションを与えられて……それで必死に全国行脚して高校の進路指導の先生に自社を売り込んでいたのですが、しばらくしてリクルート事件が起こって採用がストップすることになり、私は新卒向けの採用広告の営業部門に異動することに。しかも配属になったのは、超大手企業のクライアントを担当するチーム。配属後3カ月間、まったく売れませんでした。来る日も来る日も飛び込み営業をし続けて、事件の直後だっただけに世間の風当たりも強くて心が折れてもう辞めようと思って上司に申し出たら「ふざけるな」と。ダメだったら辞めればいいという甘い気持ちを見透かされていたんですね。それで逃げ道がなくなって、覚悟を決めて本気で取り組みはじめた。幸いにも当時は人手不足から大手企業が高校生の採用を増やしていて、私が入社してしばらく携わっていた高校生採用のノウハウを活かせたんです。それで何とか成果を上げることができました。その後、営業という仕事が面白くなってのめり込んでいきました。単にモノを売るのではなく、顧客が実現したいことを一緒にかなえていく仕事なんだと思うと、相手が本当にやりたいことを引き出していくのが楽しかった。それは、今私が仕事にしている「コーチング」に通じるところがありますね。

――
山田さんがリクルートを離れようと思われたのは、何かご自身の中できっかけがあったのでしょうか。
山田

ひとことで言えば、果てしないビジネスゲームに飽きてきたんです。当時のリクルートはひたすら成長を志向する企業でした。広告を出稿して、良い人材が採用でき、企業が成長して日本の経済が発展する。意義のある仕事だと頭ではわかっていたものの、このビジネスが果てしなく成長した先に何があるのか。「何のためにこのビジネスをやっているのか」という意味をそこに見出せなくなっていったんですね。そんな折、採用広告を扱う部門から教育研修を手がける部門に異動になって、商材のリサーチのためにある研修を受ける機会があったんです。特に興味もなかったのですが、講師からいきなり「山田さん、何のために仕事をしているのですか?」「人生を賭ける価値のある夢は何ですか?」と問われて、まったく答えられなかった。頭を思いきりガツンと殴られた感覚でしたね。

「考えたこと」よりも、「感じたこと」のほうが強い。

「考えたこと」よりも、「感じたこと」のほうが強い。

――
たまたまその研修を受けたことが、山田さんにとって大きな転機となったわけですね。
山田

それから自分の「志」を懸命に探し始めたのです。いろいろな本を読んだりセミナーなどにも参加したものの、なかなか見つからない。そんな折、同期に「コーチングを受けてみたら?アメリカでコーチングを学んだ専門家を知っているよ」と勧められて……それでCTIジャパンを創設した榎本(英剛氏)を紹介してもらって、その場で契約を結んでコーチングを受けたんです。1年半ほどコーチングを受けるうちに見えてきたのが、さきほどお話した「家族」と「自然」というテーマでした。自分は延々と続くビジネスゲームがやりたいわけじゃない。この2つのテーマを追求していけば、これからの人生を生き生きと生きていけるのでは、思ったんです。同時に、子どもの頃の経験の中で芽生えたものが、ずっと自分の中に生きていて、こういう形で顕在化するということ、人にこういう形で新たな気づきを生み出すコーアクティブ・コーチングに衝撃を受け、私自身もコーチングを学びたいと、36歳から学び始めて39歳でプロ・コーチとして独立しました。

――
サラリーマンを辞めてコーチングのプロになるという選択に対して、リスクをお感じになられませんでしたか。
山田

もちろん、半端なく感じました。(笑)結果として独立しましたが、そこに至るまでは大いに迷いました。すでにリクルート内でマネジメントのポジションに就き、かなりの報酬も得ていましたし、それに「コーチング」はまだ一般には浸透しておらず、独立して本当に家族を養えるのか?という経済的な不安もあった。周囲からも「戦略や計画性がない」「今じゃなくてもいいんじゃないか」とほとんどすべての人から反対されました。頭ではたしかにもっともだと思う一方で、自分の「志」に向けて進みたい、という心の声もあった。決断できない自分が情けなくて、半年ぐらい迷い続けて……そのうち、もう迷うことに飽きてしまって(笑)、ある日突然心が晴れてそのまま辞表を提出しました。

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――
独立してから、どのような変化がありましたか。
山田

人生観がまったく変わりましたね。やる前にあれこれ悩むより、やりたいことを本気でやれば、うまくいかないこともあるけれど、それで生きていけるとわかった。独立後はそれこそ365日休みなく働きましたけど、まったく苦にならなかった。それほどこのコーチングの仕事が自分に合っていたんですね。でも落とし穴があって、2年ほど経った頃、電車の中で突然胸が苦しくなって倒れて、意識不明になって救急病院に運ばれる事態に……が、検査しても特に悪いところがなく、結局原因は不明。コーチングというのは時には相手の重たい感情、たとえば封印している怒りや憎しみをそのまま聴くことになるので、それにまだコーチとしての経験の浅い私の精神が耐えきれなくなっていたようなんですね。そのあたりから人間の力だけではどうにもならないことが、ここにはあるのかもしれないと感じるようになりました。

――
そこで山田さんに再び大きな転機が訪れたのですね。
山田

ええ、その頃から「自然」の存在を再び強く意識するようになりました。自分が意識不明になって死を意識したという経験をしたことも大きかったのですが、クライアントにコーチングしていると、仕事で成功を収めて昇進し、収入も地位も得て家族もハッピーになっているのに、「この地位や名誉をキープできるだろうか?」「ライバルにいずれは負けてしまうのではないか?」といった不安を抱えている方が結構いらっしゃったんです。いくらコーチングをしてもそのそこはかとない不安が消えない。これは人間の力だけではない何かが必要なのではないか。そんなふうに感じ始めた時、頭に浮かんできたのが、子供の頃に暮らした那須の田舎の風景でした。それでクライアントと一緒に森の中に入って、ただ一緒に過ごす時間を作ってみたんです。森をいっしょに歩き、静かに一人で過ごし、食事を作って、焚き火の前で語らう、そんな時間です。すると、いつのまにかあの漠然とした不安が消えていく。クライアントもなぜかわからないけれど、たしかな変化が起きていることに驚かれていました。そこでは私はほとんど何もしていない。まさに森の力のおかげ。そうした経験を重ねるうちに、特に震災以降、人間が自然=森から大切なものを受け取り学ぶ場を創ることが自分の本当の役割だと強く感じるようになりました。人間同士でなんとかできる領域ももちろんあるけれども、やはり人間は自然から学ばなければ生きていけない。それを持続可能な事業として成立させるために、2011年に株式会社森へを設立しました。非常に難しいテーマですが、だからこそやりがいを覚えています。

――
山田さんのこれまでのご経験から、30代40代の方々に向けてキャリアのアドバイスをお願いします。
山田

私自身のキャリアを振り返ると、要所要所で自分の心が「感じたこと」を行動に起こしてきたように思います。けっして考えに考え抜いて実行してきたわけではない。たとえば森と人間をつなぐ事業など、戦略や計画を立てて成功の確率などを考えていたら、まず実行できないようなこと。人間というのはそもそもは「感じる」生き物なんですよね。以前、山伏の修業をしたことがあって、その時に感動した言葉があるのですが、「修験の道が1400年続いているのはなぜか、それは感じたことを考えたからだ」というもの。つまり、考えたことをさらに考えるのではすぐに行き詰まる。まず感じて、そこにある意味を考える。感じたことは自分の中にしっかりと残るし、他の人の心にも伝わるのです。いまの世の中は、考えたことをさらに考えていての連続で、だから閉塞感がある。感じるままに動いていると、生きる力が太くなっていくように思います。これから1000年続くような事業をやろうと思うならば、「感じる」ことを礎にしていったほうがいい。自分が感じたことを大切にする生き方が、自分も人も元気にするし、人と人をつなぎ、人と自然もつないでいく、私はそう信じています。

構成: 山下和彦
撮影: 上飯坂真

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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インタビューを終えて

山田さんとは出会って約10年が経ちますが、常に「自然体」という印象。今回のインタビューではその背景、根底にあるものについて、はじめて伺うことができました。現在の山田さんからは想像できない、幼少期の悩みや苦しみなどのエピソードは驚きでしたが、そうした強烈な体験を経て、向き合うことになったご自身の根源的なテーマ(自然・家族)があり、そのテーマを生きる術(仕事)にする。そんな山田さんの感じたことに従う生き方は、簡単に真似できるものではないと感じますが、これこそが人と仕事のあるべき関係性ではないかとすら感じました。 私自身も過去に「森のリトリート」に参加させていただきましたが、普段都会では感じることのできない本当に貴重な体験でした。自分自身の内面に確かな変化を感じたことがあります。人と自然を繋ぎ、根源的に元気にしていく。そんな素晴らしい山田さんの活動を個人的にも応援していきたいと思っています。今回は貴重なお話、ありがとうございました。

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