ハイクラス転職のクライス&カンパニー

世の中から「失敗」という言葉をなくしたい それは成長への大いなるチャンス!

公開日:2018.03.02

東京・大田区の測定具メーカー、ダイヤ精機の二代目社長である諏訪貴子氏。32歳の時、それまで普通の主婦であった諏訪氏は、創業者である父親の急逝を受けて社長に就任。経営者としてはまったくの素人ながらも、小さな町工場の経営改革に挑み、中小企業のモデルとなるような企業へと生まれ変わらせた。その顛末を綴った自著「町工場の娘」(日経BP社刊)は話題を呼び、NHKでテレビドラマ化もされている。「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」大賞も受賞するなど、現在、影響力の大きな女性経営者の一人として注目を集める諏訪氏に、あらためて仕事観や人生観について話をうかがった。
諏訪貴子氏のプロフィール写真

諏訪 貴子 氏プロフィール

ダイヤ精機株式会社 / 代表取締役

1971年、東京都生まれ。成蹊大学工学部卒業後、自動車部品メーカーのユニシアジェニックス(現・日立オートモティブシステムズ)入社。98年から2000年にかけて2度、ダイヤ精機に入社するが、経営方針の違いから2度ともリストラされる。04年、父の急逝に伴い、ダイヤ精機社長に就任。経営改革に着手し、10年で優良企業に再生。中小企業政策審議会委員、政府税制調査会特別委員、「日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」大賞受賞。著書に、『町工場の娘』『ザ・町工場』(以上、日経BP社刊)。

Message

志あるハイクラス転職を、クライスと クライス&カンパニー

Interview

若いうちは夢なんて持たなくてもいい。私もそうだった。

――
「町工場の娘」を拝読させていただきました。諏訪さんは、お父様の跡を継がれてダイヤ精機の社長に就任されたわけですが、幼い頃、お父様からどのような育てられ方をされたのでしょう。何かご記憶に残っていることはございますか。
諏訪

よく覚えているのは、中学の時、塾のクラス分けの試験で成績優秀者の選抜クラスに入れなかったことがあったんですね。悔しくて泣きながら家に帰ると、父から「自分の努力が足りないからだ。そんなことで泣くんじゃない」とひどく叱られて……てっきり慰めてくれるのかと思っていたのでショックだったのですが、確かに父の言う通りだと。そこから自分が変わったんですね。私はもともと負けず嫌いなんですが、他人に負けるのは悔しいと思わなくなりました。それは私が努力を怠っただけ。でも、自分の努力が足りないがために目標をかなえられないのは本当に悔しいと、そう自然と感じるようになりました。

――
社会に出られてからも、そうした姿勢が諏訪さんのベースになっていらっしゃるのですね。
諏訪

ええ、ライバルは自分しかいないと思っていますし、まわりの方々が成功すれば素直にうれしい。経営者としては特殊なのかもしれませんが……。

――
他人の成功を喜べない人は世の中にたくさんいます。諏訪さんのフォロワーが多いのも、みなさんそこに魅力を感じられているからなのでしょうね。ところで諏訪さんは社会に出られた時、ゆくゆくはダイヤ精機の経営に関わることになるだろうとお考えになっていたのですか。
諏訪

父は意識していたかもしれませんが、私自身はまったく考えていませんでした。それこそ当時は、大企業に入って、永久就職のための「三高」の男性をつかまえて、寿退社するイメージでした(笑)。そんな私が40代後半のこの歳になって、いま夢を持って前に進んでいる。当時の私からすれば信じられない。ですから、若いうちは夢なんて持たなくても大丈夫。逆にいまの若い人は、「夢を持ちなさい」と言われることがストレスになっているようにも思います。

――
若いうちは、人生に夢がないことに悲観する必要はないということですね。
諏訪

私も20代のうちは、まわりからやれと言われたことを必死でやっていただけですし、30代になってダイヤ精機を継いでからも、この会社を潰さないためにやらなければならないことに必死で取り組んできた。そして40代になって、ようやく自分の夢が見えてきたという感じです。もちろん、若いうちから夢を持って進める人は素晴らしいと思いますが、全員が全員そうじゃない。そんな方も目の前のことを一生懸命やっていれば、いずれ必ず夢と出会えると思います。

――
諏訪さんは新卒で入社された企業を、結婚を機に退社した後、ダイヤ精機に勤務されていた期間がありますが、その時はお父様と経営についてお話しされていたのですか。
諏訪

父に乞われて入社しましたが、あくまで総務の一社員として勤務しました。父は役員として入れたかったようですが、私は前職を2年で辞めていて、そんな社会経験のほとんどない人間が役員を務めるのは変ですし、新入社員のつもりで仕事に取り組もうと。ですから社長と一社員という関係でしたが、やはり父親ということで社長に物申せるのは私の特権だと思い、社員さんと同じ目線で社員さんのために進言しようと、現場の声を父に伝えることに努めていました。

自信はまったくなかった。でも、自分が後悔しない道を進みたい。

自信はまったくなかった。でも、自分が後悔しない道を進みたい。

――
そして、先代の社長であるお父様が急にお亡くなりになられ、ご自身が跡を継がれることになりました。その時の心境はいかがでしたか。
諏訪

実はその前から父は肺がんを患っており、治療を続けていったんは収まっていたのですが、それが骨髄に転移したんです。父が倒れて入院した時、医師からは余命4日だと宣告されました。その時はもう悲嘆に暮れて……実は当時、メーカーに勤めていた主人がかねてから希望していたアメリカ赴任が決まり、私も息子とともに同行する予定でした。それが、突然父が亡くなって、残された会社のことを考えなければならなくなった。最初は主人が「自分がやってもいいよ」と言ってくれたのですが、経営者の家庭というのは多額の借入れを抱えているのが常で、私はそれが当たり前の状況で育ったので何とも思わないのですが、サラリーマン家庭で育った主人はきっと相当のプレッシャーを感じるだろうと。無理を強いるのも申し訳ないので、主人には「自分の夢を選んでください」とアメリカ赴任を奨めました。そして、いまいる社員の中で誰か継いでほしいと相談したところ、私にやってほしいとお願いされて……どうすべきなのか本当に悩みました。

――
最終的にご決断されたのは、何が諏訪さんを後押しされたのでしょうか。
諏訪

実は、父は生前、当時まだ小学生だった私の息子に跡を継がせたいと考えていたんです。彼が大人になるまで、私が中継ぎで社長をやることになるかもしれないと思っていて、主人のアメリカ赴任もせっかくの機会だからと、渡米後に向こうでMBAを取ろうなどとも思っていました。しかし事態が急変し、いま継ぐべきかどうかの決断を迫られることになった。その時、強く思ったのは「自分が後悔しない道を進みたい」ということ。将来、自分が継ぎたいと思った時には、もしかしたらもうこの会社はなくなっているかもしれない。社員もみな辞めずに残ってくれましたし、父が創ったこの会社を存続させたいという気持ちもありました。自分に社長が務めるとはまるで思っていませんでしたが、やらないで後悔するのだけは嫌だと、そんな思いで会社を継ぐことを決めました。社員みんなの前で「私が社長をやります」と告げた時の光景は、いまでも脳裏に焼き付いています。

――
そうして諏訪さんはこのダイヤ精機を二代目社長に就かれたわけですが、ここまでの道のりはけっして順風満帆ではなかったかと存じます。いちばん苦労されたことは何でしたか。
諏訪

社長に就いてすぐ、低迷していた業績を立て直すために、5人の社員に会社を去っていただいたのですが、それがいちばん辛かったですね。

――
社員の方にリストラを宣告されるのは、経営者として本当に堪らないことだと心中お察しします。
諏訪

そのシーンはNHKのドラマの中でも描かれたのですが、ご覧になられた経営者の方々から大きな反響があって……みなさん同じようにリストラの退職推奨のご経験をお持ちで、ある方は「あのシーンを見て涙が出てきた」とおっしゃられていました。普段は感情を押し殺して冷徹に決断されていても、やはりみなさん内心は辛い思いを抱えていらっしゃるのです。ドラマ化していただいたことには、私自身も感謝しています。社長として味わってきた辛い経験や自分の弱い部分も忠実に描いてくれていて、私はスーパーウーマンでも何でもないということを世間に知っていただけた。こうした社長のリアルな苦悩を描いたドラマというのはあまりなかったようで、まわりの経営者の方々から共感の声をたくさんいただきました。

――
そうした辛い経験を味わっても、諏訪さんはけっして投げ出さず、常に前だけを見て進んでいらっしゃるようにお見受けします。その原動力はどこからきているのでしょうか。
諏訪

苦労しながらも地道に会社のことを想って頑張っていると、チャンスが舞い降りてくるんです。突然、「こんなことをやってみたら面白いかも」と閃くことがあって、それを掴みにいくのが楽しんですね。その時はもう“キターッ”っていう感じで(笑)、いままでの努力はこのためにあったのか!と居ても立ってもいられなくなる。いまは、やりたいことが次から次へと頭に浮かんできていて、それを楽しんでいる毎日ですね。

――
ダイヤ精機の社長は、まさに諏訪さんにとって天職なのですね。
諏訪

私は、本当は地味で大人しい性格で、自分から進んで人前に出るようなタイプの人間ではないんです。でも、ダイヤ精機の社長を務めている間は、別の人格が出てきて、とことん仕事に打ち込んで何でも楽しめる(笑)。そうした意味では天職なのかもしれませんね。

日本のものづくりを再び輝かせたい。そのために自ら起業に挑む。

日本のものづくりを再び輝かせたい。そのために自ら起業に挑む。

――
諏訪さんはメディアでもよく取り上げられているので、教えを乞いにいらっしゃる経営者の方も多いのではないでしょうか。
諏訪

人材採用や育成、あるいは事業承継などでよくご相談をいただきます。最近は講演会に呼ばれる機会も増えましたが、参加されるみなさんの参考になればと、当社の事例をご紹介して経営手法をすべて公開しています。そうした場で「ヒントがありました」とおっしゃっていただけるとうれしいですね。

――
ご自身が築き上げてきたものを、惜しげもなくオープンにされているのですね。
諏訪

みんなで生き残っていきたいんです。これまで世界一だと言われてきた日本の製造業が衰退していくのは寂しいですし、「ものづくりニッポン」を盛り上げていく力になりたい。また、経営手法をオープンにしているのは、もっと新しいことを考えなければと自分に発破をかける意図もあります。

――
そうしたお話からも、負けず嫌いだけれども他人との競争には関心がない、という諏訪さんの生き方がうかがわれます。いまお話に出てきた「ものづくりニッポン」を意識されるようになられたのは、何か契機があったのでしょうか。
諏訪

ダイヤ精機の社長に就いて3年ぐらいは、この会社を立て直すことに無我夢中で取り組んできました。そして経営も安定し、周囲からも認められるようになってくると、だんだんモチベーションが下がってきたんですね。その時、自分の中であらためて大義が必要だと思って掲げたのが、当社のような中小企業がみな生き残り、もう一度日本のものづくりを輝かせようということ。父は生前、東京商工会議所の大田支部の会長を務め、日本の製造業の未来を危惧していました。おそらく夢半ばだったと思うので、私がその遺志を継いでいこうと。ゴールは遥か遠くにありますが、かえってそれがいまの私の大きなモチベーションに繋がっています。

――
そうした大義というのは、誰でもお題目としては掲げられるものの、実際に行動にしないと絶対に実現しません。諏訪さんは具体的に行動に移していらっしゃるのが凄いと思います。諏訪さんのように大義をもち、そこに向かって行動していきたいと思う方はおそらくたくさんいらっしゃるはずなのですが・・・でも、実際には失敗するのが怖くてなかなか一歩を踏み出せない。ご経験から何かアドバイスできることはございますか。
諏訪

人として生きていく上で「失敗」なんてないと思うんです。それは成長するためのチャンスでしかないんだと。だからダイヤ精機では社内から「失敗」という言葉をなくしています。私も過去、それを実感したことがあって、さきほど講演会で経営手法を公開しているとお話ししましたが、最初の頃はとても評判が悪かったんです。参加者からのアンケートも「つまらない」「生意気だ」とか散々な内容で、本当に泣きそうな思いでした。でも、そこであらためて考えたんです。当時はとにかく大真面目に講演していたのですが、参加されている経営者の方々の業種も違えば課題も違う。ならば、講演の場ではとにかく面白いストーリーで楽しんでいただき、興味を持ってくれた方がいらっしゃれば後でしっかりお応えすればいいんじゃないかと。そうしてある種、パフォーマンスに徹したら評判を呼んで、いまでは年間で120回ほど講演の機会をいただくようになりました。きっと最初の頃にボコボコにされていなかったら、凹んだまま何も行動しなかったら、ここまで辿り着けなかったと思います。

――
失敗は何も罰せられることではないですし、それを恐れてやりたいことにチャレンジしないのはもったいないですよね。
諏訪

本当にその通りです。私も先日、財産を注ぎ込んで新しい会社を立ち上げました(笑)。事業内容はまだ発表できないのですが、要は自分自身で起業してみたかったんです。これから中小企業の事業承継がどんどん進み、二代目三代目が増えてくると、次の課題はそうした人材が新しい事業を自ら起こせるかどうかだと思うんですね。二代目三代目は創業者じゃないので起業経験はないのですが、いま経営に携わっている人間が起業するほうがリスクも少ないですし、日本にとってもメリットは大きい。でも、若者起業家向けのスタートアップ支援はあるものの、中小企業の経営者の起業支援サービスはないんです。

――
確かに、経営者への起業支援というのは私も聞いたことがありません。
諏訪

ですから、まず私が実際に起業を経験してみて、またそこで得た知見をオープンにして、後に続くみなさんの役に立てればと考えています。

――
素晴らしい取り組みだと思います。その着想も先ほどおっしゃられていたように突然舞い降りてきたのでしょうか(笑)。
諏訪

ええ、降りてきました。いつもの“キターッ”っていうやつです(笑)自分の起業経験を通して、あらゆる経営者の方にとっての新しい生き方や新しいチャレンジの可能性を世の中に示したい。これからまさに自分自身のキャリア第二章のスタートラインに立っている感覚です。もうとてもワクワクしていますし、失敗したらどうこうとか考えている暇はありません。大義に向かって走り出すのみです!

構成: 山下和彦
撮影: 櫻井健司

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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インタビューを終えて

NHKドラマで何度となく泣かされた、あの諏訪社長との対面はいささか私も緊張を隠せませんでしたが、いざお会いさせていただき最初に感じたのは、その圧倒的な明るさと笑顔に漲るエネルギーでした。まだほとんどお話ししていないのに、なんだかこちらまで元気になってくるようなその佇まいに一気に心が引き寄せられ、気付けば緊張などどこ吹く風となっていました。ファンが多いのも頷けた瞬間でした。 経営者としてはまったくの素人ながらも、急遽小さな町工場の社長となり、経営改革に挑み今では中小企業のモデルとなるような企業へと変貌させた諏訪さん。まわりの方々が成功するのが心から嬉しいと仰られ、その経営手法をあますことなく開示。ドラマや書籍でもその一旦が公開されていましたが、決してこれらの手法そのものがあったからの改革成功ということではなく、いずれも上記のようにポジティブ、エネルギッシュで常に前だけみている諏訪さんという人格がベースにあったからこその効果だったのだろうなと感じました。 まさにドラマどおりと仰っていましたが、社長就任直後のリストラ、リーマンショック後の受注減など、数々の危機的状況や心理的プレッシャーをスマートにではなく、涙にまみれ、足を使い、まさに大奮闘しながらも前だけみてそれを乗り越えてこられた諏訪さんの一言一言は格別の重みでした。「自分も凹んだまま何も行動しなかったら、ここまで辿り着けなかったと思います。失敗は成長のチャンスなんです!」という一言がとくに心に響くインタビューでした。諏訪さんありがとうございました!起業も応援しています!

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